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阪神・淡路大震災 [某月某日@関西]

それは今から16年前、1995年1月17日(火)の朝でした。当時、私は明石に単身赴任中で、会社の独身寮に住んでいました。この寮はその1年半ほど前に新築された5階建てのワンルームマンション形式のビルでした。一階が食堂や管理人さんの部屋で、2階から4階に独身者、5階に単身赴任者が住んでいました。

これは建築中に撮影した独身寮です。西明石駅から近く、駐車場も完備し、住むには便利なところでした。
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これが部屋の中から玄関のほうを写したものです。右手が流し、左手が衣服のキャビネットです。右手奥がバストイレで、写真には写っていませんが手前右手にベッドがありました。単身者が生活するには必要十分な部屋でした。
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さて、1月17日の朝6時前、ベッド中で突然体が空中に放り投げられた感じがしました。ちょうど胴上げされた気分です。私の人生の中で一度だけ胴上げされた経験があります。私の結婚式でした。もう40年近く前のことです。
空中に放り投げられた後、ベッドにドーンと叩きつけられ、ちょっと間を置いた後、ユサッ、ユサッ、ユサッ、と左右に大きく揺すられました。ベッドの端にしがみ付き、恐怖に震えていました。一分以上揺れていたような気がしますが、実際にはもっと短かったのだと思います。
揺れている間に、棚の上のものや本箱の本が、ほとんど全て床の上に散乱してしまいました。
パジャマのまま玄関口から外の通路に出てみると、みんなびっくりして飛び出してきていました。「すごい地震やったなあ、震源地はどこやろ?」などと話していましたが、多くの人が想像していた震源地は東海沖でした。ですから、「明石でこんなに揺れたのだから、東京は大丈夫か?」という心配でした。でも、結果的には震源地はすぐそばの淡路島でした。
寮の住人と職場の人やその家族に大きな怪我をしたり亡くなったりした方がいなかったのは幸いでした。でも、精神的には被害を受けた人もいました。30歳前の若い人ですが、自宅が神戸でしたので、大きな揺れに強い恐怖を感じてそれがトラウマになっていたようです。その後の少しの余震でも恐怖に顔を引き攣らせていました。完全に立ち直るまで数ヶ月かかりました。
午前中は職場での対応に追われたこともあって、横浜の家人に連絡が付いたのはその日の夕方近くでした。「なぜもっと早く無事を知らせてくれなかったのか?」と責められましたが、その日はほとんどの電話が通じなくなっていたのです。
電気、ガス、水道も全て止まりました。復旧の順番は、電気が一番早く、たしかその日の夕方には回復したと思います。水道は2,3日掛かったように思います。でも当時のマンションは屋上に水タンクがありそこから水を供給していましたので、断水になってもタンクの水がある間は水が使えました。私は風呂桶一杯に水を溜めました。これが後で顔や手足を洗ったり、体を拭いたりするのに大いに役立ちました。ガスの復旧には一週間くらい掛かったように思います。全てのガス漏れ箇所を塞いでからでないとガスが流せないからです。一番被害の大きかった神戸地区では、電気、水道、ガスの復旧にもっと時間が掛かったそうです。

被害の大きさは私がここで改めて述べる必要もありませんが、この写真のようなビルがあちこちで見受けられました。
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神戸新聞社も大きな被害を受けましたが、一日も休刊せずに報道を続けていたことはすごいことだと思います。
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三宮のそごうデパートも大きな被害を受けました。
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西明石から新横浜に向かう新幹線の窓から眺めると、地震から一年くらいはあちこちに空き地やブルーシートで覆った家屋が見受けられました。
5年前に久しぶりに明石に行く用事がありましたが、もう地震の跡形は完全に払拭されていました。被害に遭われた方々にはたいへんな10年間だったと思いますが、その復興の力に頭が下がりました。

明石海峡大橋 [某月某日@関西]

また話題が突然変わって、関西に飛びます。
私は1993年10月から3年半、明石に単身赴任していました。その時経験したこともこのブログで紹介します。

1995年1月17日の阪神淡路大震災は在明石期間中の最も大きな出来事でしたが、それはまた別の機会に書きます。今回は、明石海峡大橋(以下、簡単に明石大橋)の工事進捗定点観測についてです。

明石大橋は神戸市垂水区と淡路島を結ぶ世界最長のつり橋です。主塔と呼ばれる二本の橋脚は高さ約300 m、主塔間距離は約2 kmで全長約4 kmあります。阪神淡路大震災の時は、二本の主塔が完成し、つり橋の命ともいえるメインケーブルを張り終わったところでした。地震によって主塔間距離が約1 m離れたそうです(1990 mから1991 mへ)。この程度の被害で済んだため、工事は大きな設計変更せずに続行されました。
私は、明石大橋が出来上がっていく様子を、明石港近くの堤防の上から定点観測しました。1995年6月から大橋の道路部分の基礎となる橋桁の鉄骨の架設が始まりました。下の写真は1995年6月11 日に撮影したものです。写真を左クリックして大きくしないと見えないかもしれませんが、二本の主塔から鉄骨を組み合わせた橋桁が延び始めていることが分かります。なお、この当時はネガカラーフィルムを使っていましたので、10年以上経って色がだいぶ変化しています。
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下の写真は1995年12月3日の撮影です。主塔からの橋桁が両側ではなく、中央部に向かって伸びています。神戸側と淡路側からも主塔に向かって橋桁が延び始めました。
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1996年3月2日です。主塔からも両側の陸地からも橋桁がずいぶん延びてきました。
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1996年5月2日です。橋桁の3分の2以上出来上がりました。
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同じ日に明石大橋の下を通って神戸方向へ進み、手前の主塔近くを望遠レンズで撮影したものです。メインケーブルからたくさん垂れ下がったハンガーと呼ばれるケーブルが重い鉄骨の橋桁を吊るして行きます。
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1996年6月22日です。橋桁の隙間が狭くなってきました。神戸側と淡路側からの橋桁はほとんど繋がりました。
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1996年7月30日です。長い工期から考えると、ほとんど繋がる瞬間といえると思います。
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同じ日に繋がり予定部分を見たものです。鉄骨は完全には繋がっていませんが、細い道はできています。
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この後、1996年9月には完全に接続されました。橋桁の架設開始から1年3ヶ月で完了です。その後鉄骨の橋桁の上に道路が形成されていきました。最終的に道路として完成し開通したのは、1998年4月でした。その時、私はすでに北京に駐在していました。

今でも新幹線に乗って新神戸から西明石へ向かう機会があると、窓から明石大橋を眺めて懐かしい思い出に耽ります。


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