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敦煌 [某月某日@中国]

井上靖の「敦煌」という小説を読んで以来、敦煌に対する憧れがありました。とくに、膨大な経典が隠されていたという、莫高窟の第16窟と17窟が興味深いものでした。これは、1900年に道教の道士が莫高窟を調べている時に、煙草の煙が壁のひび割れの中に吸い込まれるのを見て、壁で塞がれていた第16窟と17窟を発見し、大量の経典が日の目を見たのです。井上靖の小説では、ここに経典を隠す経緯を詳細に描写していました。予てより一度見てみたいと思っていました。
2001年10月にその敦煌を訪れる機会がありました。第16窟と17窟も見ることができました。大感激でした。

敦煌空港は、写真のような小さな空港施設のあるこじんまりしたものでした。数十人乗りの小型飛行機のタラップの階段を降りて数十メートル歩くと、空港施設です。
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莫高窟は敦煌市内から南東に約15km行った所にあります。これが莫高窟の入り口です。大仏殿になっています。中には高さ33mの大きな大仏様が祭られています。
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莫高窟の全景は下の写真のような形をしています。山の斜面をくり貫いて洞窟がいくつも作られています。中心に見えるのが上に写真を示した大仏殿です。
洞窟の中の壁画はすべて撮影禁止です。何十もの洞窟があり、その壁に美しい仏像や天女の像がたくさん描かれています。浄土とはこういうものかと思わせる壁画もありました。
第17窟は16窟の中の小部屋になっていました。わずか一坪ほどの狭い空間でした。しかし、ここに膨大な経典が堆く積まれていた状態を想像するだけで感激しました。また、特別料金(60元;約900円)を払って見た57窟の菩薩像にはじっと見とれてしまいました。
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莫高窟から北西に20km(敦煌市内からは南に5km程度)ほど行ったところに、鳴沙山という砂山があります。下の写真のような高さ50-60mの砂山が続いています。歩くとキュッ、キュッという音がする砂です。鳴沙山の沙という字は、細かい砂のことだそうです。ですから、沙が鳴く山という意味で鳴沙山と呼ばれているようです。
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この山はどこからでも登れる訳ではありません。普通に歩いて登ろうとすると砂がこぼれてきて、足が前に進みません。階段が作ってあるところを歩いて登ります。ただし、登ろうとすると、おじさんが飛んできて料金を徴収します。たしか、30元(約450円)だったと思います。
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この鳴沙山のふもとに、月牙泉という泉があります。これだけ砂だらけの地形の中で、泉の水が枯れないで残っているのはたいへん不思議な気がします。この月牙泉の畔には美しい楼閣があります。
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鳴沙山の山頂から月牙泉を見ると、このように泉の周りにだけ緑が生い茂っています。このような場所で見る緑というのは、とても貴重な存在に見えます。
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こうして砂山の上に立つと実に不思議な感覚です。大きな山の頂上ではなく、この程度の山の頂上にいると地球を踏みしめているという感じがあります。
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チベットの思い出-3 [某月某日@中国]

ラサを離れて日喀則(シガツェ)へ向かいました。シガツェはチベット第二の都市で、ラサから西へ約300km離れています。途中、いくつもの山を越えて行きました。一歩踏み外せば断崖の下の流れまで転げ落ちそうな怖い道を、くねくねと曲がりながら車は進みました。
途中、寧金崗桑峯(海抜7191m)の雪を見ながら車は進みます。
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山間をきれいな川が流れています。
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長い時間バスに揺られた体を休めるため、この川のそばの草原で休息しました。
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シガツェに着きました。ここにはチベット仏教ゲルク派の二大活仏の一人である班禅ラマ(パンチェン・ラマ)の本拠地扎什倫布寺(タルシンポ寺)があります。
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タシルンポ寺には歴代のパンチェン・ラマの霊塔が配置されています。ポタラ宮にも劣らぬ荘厳さです。世界最大の仏像もありました。奈良の大仏と同じ位に見えますが、それより大きいそうです。

中央の高い建物はパンチェン・ラマ4世の霊廟です。
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敷地内には僧侶の宿坊があります。
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帰りにチベット人の家庭を訪問しました。
チベットのお酒を振舞って貰って歓待されました。子供たちと一緒に記念撮影です。この子供たちも今では成人の年齢になっていると思います。
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若者は外に働きに出ており、年寄りが孫の面倒をみる、日本も昔そうだったなあというような原風景がありました。
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この旅行で一つハプニングがありました。それは一緒に行ったMuさんがチベットへ入って2日目から4日間病院に入院したことです。高山病がひどくなった肺水腫でした。診断した医師の話ではもう一日病院に来るのが遅れていたら、脳水腫になって助からなかったかも知れないということでした。Muさんは私より2歳年上でしたが、高山病は一般に年齢が高くなるほど重篤になるそうです。
驚いたのは病院施設の充実です。ドイツが資金援助して作った病院だそうですが、24時間看護で付き添いも不要です。入院費用が相当高いのではないかと皆でお金を出し合う相談をしておりましたが、意外にもMuさんの手持ちのお金で十分間に合いました。
帰りの飛行機にはMuさんも一緒に乗ることができましたが、Muさん曰く、「俺はいったい何をしにチベットへ行ったのかなあ」。

(チベットの思い出、終わり)

チベットの思い出-2 [某月某日@中国]

引き続き、ポタラ宮の話です。
ポタラ宮の裏手に回ると、このようなマニ車がたくさんありました。一回廻すとお経一巻あげたことと同じご利益があると言われています。私もマニ車をぐるぐる回しながら歩きました。
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これはポタラ宮の裏側の道です。こちらから見ても、ポタラ宮は要塞という感じがします。
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次にノルブリンカを訪れました。チベット語で宝石の園という意味だそうです。ここは、ダライ・ラマ14世が夏の時期だけ執務を行った避暑地です。ダライ・ラマが使っていた執務室や謁見室、それに仏間などがあります。執務室にはイギリスから贈られたラジオやレコードプレイヤーが当時のままに置かれており、時の流れを感じました。
ダライ・ラマ14世は、1959年のチベット動乱の際、中国の人民解放軍の追跡を逃れるために密かにこの離宮を脱出し、インドへ亡命したそうです。それから50年以上も歳月が流れ、いまだにこの地に戻れない14世の望郷の想いが想像できます。
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次に行ったのが、大昭寺(ジョカン寺)です。ここはチベット人なら一生に一度はぜひ訪れたいと思う寺だそうです。自分の体を大地に投げ出して祈る“五体投地” をしながら寺巡りをしている者もいます。多くの巡礼者はみすぼらしい着物を着ていますが、みな清貧であり信心深い人々です。多くの人は1角札あるいは2角札(1角=0.1元(約1.3円))を沢山手に持ち、仏像があるたびにお賽銭として投げます。
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屋上には巨大な鳳凰の像が飾られていました。
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屋根の別の隅には大きなマニ車が飾られていました。その向こうにポタラ宮が見えます。
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屋上から大昭寺の前の広場をみると、映画の一シーンのような光景が広がっていました。
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多くの巡礼者が賽銭を置いていきますので、大昭寺に限らず、お寺というお寺の仏像の近くはお札の山です。それを僧侶が時々集めに来ます。その横で物乞いが群集に手を合わせています。手を伸ばせば取れるところに賽銭が飛んでくることがあっても、決して賽銭に手をつけることはしません。貧しいけれども清く美しい国、それがチベットの印象です。

(続く)

チベットの思い出-1 [某月某日@中国]

中国では10月1日は国慶節とよばれる建国記念日です。1999年の10月1日は中国建国50周年記念でしたので、盛大に軍事パレードが行われました。パレードが最もよく見える長安街沿いのホテルは、通常100ドル程度の部屋がその日に限って3000ドルにもなったそうです。

ともあれ、中国では、旧暦1月1日の春節(旧正月)、5月1日の労働節(メーデー)、それとこの10月1日の国慶節は3つの大型連休となります。通常1週間から10日の休みです。

2000年10月の国慶節休暇の時、当時駐在していた北京の会社の仲間8名でチベットを旅行しました。それまで行ったどの場所とも違う雰囲気のチベットには大変感激しました。
チベットの思い出について述べます。

北京から成都へ飛んで一泊し、朝6時半の飛行機でチベットの首都ラサに向かいました。ラサ到着9時でした。その当時、空港ではパスポートチェックだけではなくビザが必要で、ビザのチェックも厳重でした。中国からみてもチベットは外国なのだと感じました。
ラサ空港に降り立った時、空気の透明さに感激しました。100 kmくらい離れた遠くの山並みが雪を頂き、その稜線がくっきりと青空の中に浮かんでいます。ヨーロッパアルプスやロッキーの山並みも綺麗でしたが、それ以上に空気が澄んでいます。でも、空気が薄いのがわかります。飛行機でいきなり富士山の頂上と同じ海抜3800mの高地に降ろされたのですから、体がついていきません。一歩あるいて一呼吸という歩き方になってしまいます。

空港からラサ市内に入り、一休みした後、ポタラ宮(布達拉宮)の見学に行きました。ポタラ宮は、5世から14世までの代々のダライ・ラマが住んでいた場所です。外見はあたかも城砦のようです。建物は13階建てで、白宮と紅宮に分かれています。ダライ・ラマは政治と宗教の両方の最高権力者でしたが、政治活動は白宮で、宗教活動は紅宮で行っておりました。
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中国ではいろいろな場所にスローガンが掲げられていますが、ポタラ宮も例外ではありません。上の写真の中心から右に延びた帯がそうです。赤字に白の文字でチベット文字と簡体字(現在中国で使われている漢字)で書かれていました。簡体字は日本で使われる漢字とは異なるものがありますので、日本の漢字で書くと、「創建中国優秀旅遊城市」、「加快旅遊産業発展」となります。それぞれ、「中国に優れた観光都市を作ろう!」、「観光産業の発展を加速しよう!」という意味になります。ポタラ宮も観光に力を入れて一生懸命稼ぎなさいということでしょうか。

このスローガン実現のためかどうか分かりませんが、ポタラ宮の入り口付近には多くのみやげ物屋が店を並べておりました。
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これがポタラ宮の中心部の紅宮です。この中に、ダライ・ラマ5世から13世までの棺を安置した霊廟があります。
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中に入ると、線香の香り、赤々と燃える何百本ものろうそく、赤と金色を配色した数々の仏像、仏を守る黄金の霊獣など、ポタラ宮には日本で味わえない独特の雰囲気があります。仏教画も日本で見るものとはだいぶ雰囲気が違います。
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紅宮には代々のダライ・ラマの棺が金箔に飾られたドームの中に安置されています。ドームは仏舎利塔の形をしており、代々のダライ・ラマの霊廟は、一人ずつ別の部屋なっています。一つひとつの部屋がかなり大きく、その豪華さに圧倒されます。

これがポタラ宮の屋上です。一つの屋根ではなく、それぞれの霊廟の上に屋根がついており、屋根の上には塔が聳えています。
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屋上から見たラサ市内です。結構大きな建物や広場が並んでいます。
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これは少し下へ降りてから上の写真の右側を見たものです。手前には官公庁や学校などの大きな建物が並んでいますが、その後ろには小さな住宅が集まっています。
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これは白宮の屋上です。奥に紅宮が見えています。ここで人だかりがしていたので近寄ってみました。
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屋上の修理工事をやっていました。でも、そのやり方はまるで“花いちもんめ”なのです。男と女のグループが右と左に分かれて並んで、一方が何か歌って相手の方に近づき、帰るときに手に持った道具で地面をドンと叩くのです。セメントを流す前の地ならしです。この分では一日掛けてもセメントを流すまで行けそうにないと思いました。でも、よく考えると、時間の効率を考えて一秒でも早くと思うのは、文明に毒された者の思考ではないかとも思えます。チベット時間ではこれで十分なのでしょう。
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ノルウェーもそうでしたが、チベットでも時間はゆっくりと流れておりました。

(続く)

中国のトイレ [某月某日@中国]

いまではずいぶん改善されているようですが、私が駐在していた当時の中国では、公衆トイレ(公共厠所)の大のほうにドアがないのは一般的でした。

最近の庶民の家庭では、ウォッシュレットのような温水洗浄便座付のトイレがステータスシンボルだそうです。客が来ると、まずトイレに案内するという話を聞きました。上海万博で何十万円もする日本製のトイレが展示されたというのも、このような中国人の購買意欲をさらに刺激するためのものと思われます。

これは私が駐在するよりもっと前の写真ですが、初めて中国に出張した1990年に撮影した観光地の公衆トイレです。
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中国に駐在してからは、中国スタイルのトイレにも慣れてしまいました。市中を歩いていても、気軽に公共厠所に立ち寄ることができるようになりました。北京市内にあるラマ教寺院に一人でぶらりと遊びに行った時のことです。寺院の中にある公共厠所に入りました。日本の観光地のトイレと同じ位にきれいです。ちゃんと個室にはドアもついています。ところがです! せっかくドアがあるのに、そのドアを開けっ放しにして中でしゃがんでいる男がいます。しかも、こっち向いて! 当時、この感覚は私には理解できませんでした。でも、その後、ある人から教えて貰った狩猟民族と農耕民族の話を聞いて納得しました。

上に示した写真で日本のトイレとの違いが二つあります。一つはもちろんドアがないことですが、もう一つは便器の向きです。最近では日本でもほとんど洋式トイレになり、普通はドアのほうを向くか、ドアに横向きに座るようになっていますが、和式トイレの場合はほとんど壁に向かって座っていました。

便器の向きは狩猟民族か農耕民族かによって違っているというのです。狩猟民族は常に襲われることを想定しています。敵は他民族のこともあれば獰猛な動物のこともあります。人は用を足している時が最も無防備になります。このため、狩猟民族は用を足しているときは必ず敵の方を向いて座るというのです。ドアがないのも敵を早く発見するためには重要なことです。防衛本能のほうが羞恥心を上回っているといえます。これに対し、農耕民族は襲われる心配が少ないので、ゆっくり壁に向かって用を足したのです。たしかに、説得力のある話ではあります。

敵に襲われるかもしれないという緊張感を潜在意識の中に持って毎日生きている民俗と、敵に襲われる筈がないと思ってぬるま湯の中で生きている民族とでは、自ずからその生き様が違ってくるのではないでしょうか。たかがトイレの向きかも知れませんが、本をただせば、このことが日本人の現在の平和ボケの源流の一つになっているのかもしれません。

海南島の思い出 [某月某日@中国]

2000年5月のメーデーの休日に、当時駐在していた中国の会社のみんなと海南島へ出かけました。海南島は中国本土の南に位置し、中国最南の島です。ハワイとほぼ同じ緯度にあります。
東洋のハワイを標榜しているように、ハワイ並の綺麗なリゾートホテルが立ち並んでいます。下の写真のようなホテルがたくさんあり、ホテルの自分の部屋から水着のまま海岸へ行くことができます。
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ここは海産物と果物が豊富です。海産物では、とくに貝類の珍しいものがたくさんあります。海鮮料理では10種類くらいの貝料理が出てきました。とりわけ、美女鮑という名の貝がたいへん美味しかった。帆立貝のような形の二枚貝ですが、貝殻が極端に厚く、直径20センチ程の貝です。
果物はマンゴ(芒果)、パパイヤ(木瓜)、ドリアン(榴蓮)、マンゴスチン(山竹子)など熱帯の果物オンパレードです。マンゴには何種類もあり、それぞれに形も色も味も違うことを初めて知りました。
植物も珍しい熱帯のものが多く、カカオ(可可豆)の実が生っているのを初めて見ました。この実からチョコレートができます。
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これは、見血封喉というジャワ産のクワ科の有毒樹木です。世界で最も毒性の強い植物だそうです。名前からして恐ろしい木です。血を見ると喉をふさぐ(息を止める)というのですから。実際に人や動物の血液にこの木の樹液が入ると呼吸困難になって死に至るそうです。過去には、この樹液を弓矢や吹矢の先に塗って毒矢として用いたそうです。スポーツ吹矢とは無縁の話です。
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みな海水浴や水上バイク、それにスキューバダイビングなどを楽しみました。
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海水浴を終えて、ホテルの中のレストランで昼食を済ませた時のことです。総勢15名の中国人の食事はにぎやかです(日本人は私だけ)。食べ終わって勘定書きを見た幹事役のWさん(女性)がウェイトレスに向かって怒り出しました。
「なんでこんなに高いの?メニューの金額を見ていたから大体幾らになるか分かってるわよ」
「メニューの金額は中皿の値段です。これだけ人数がいるから全部大皿で出しました。大皿の値段は中皿の5割増しです」
「そんなこと、初めから言ってよ。聞いてないわよ。こんな金額払えないわよ」
それを見ていたほかの連中も一斉に怒り出しました。
「社長を呼んで来い」
「社長は出張中です」
「じゃー、副社長がいるだろう」
「副社長も出かけています」
「だれでもいいから、とにかく責任者をつれて来い」
ウェイトレス頭と思える女性がやってきました。それからの侃侃諤諤(カンカンガクガク)は中国語が分からなくても非常に面白いものでした。こういう場面では女性の方が断然強く、女性社員が代わる代わる文句を言います。男性社員は、時折「そうだ、そうだ」という程度でだらしがありません。普段大人しい女性社員までもが激しい口調で攻め立てます。「お前、そこまで言うか?」と言いたくなるような口ぶりでした。でも、皆本気で怒っている訳ではなくゲーム感覚だということが次第に分ってきました。
途中、女性社員が私を気遣って、「まだ長引きそうですから、部屋に帰って休んでいてください」と言ってくれましたが、「いやー、こんな面白いのは滅多にないから、ここにいるよ」という訳で、最後にたどり着いた結論は“請求書の1割引で妥協”。これが中国流交渉術のようです。
たいへん楽しい海南島旅行でした。

万里の長城の端はどうなっているの?(続き) [某月某日@中国]

前回のブログ、「万里の長城の端はどうなっているの?」を載せましたところ、「どうやって西の端まで行くの?」というご質問を受けましたので、先のブログの続きを書きます。

敦煌へ向かう飛行機はこのような小さな飛行機です。ブリティッシュエアロスペース社製のBAe146型機です。小さい割にはジェットエンジンが4基もついています。主翼が胴体の上についていますので、スピードは出ませんが、非常に揺れが少なく安定しています。
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敦煌市内の目抜き通りに立っている反弾琵琶の像です。これは莫高窟の壁画にある像を立体化したものだそうです。敦煌のシンボルになっています。
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敦煌市内から万里の長城の最西端までは100km足らずです。その日は、下の写真のようなワゴン車をチャーターしました。運転手と日本語のしゃべれるガイド付です。乗客は友人夫婦と私ども夫婦の4名だけでした。
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敦煌から長城の最西端へ続く道は、このような砂漠の中の一本道でした。砂漠の中にこれだけ立派な道路が続いていますが、これは長城の最西端に行くために作られたものではなく、その先の軍事基地や西域まで行くためのものです。
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窓からみる景色は砂漠の中に低い山が連なっていました。
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ここが玉門関です。道路標識に玉門関管理所と書かれており、その向こうに見えるのが前回のブログでも紹介した玉門関です。
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玉門関に近づくと、石造りの頑丈な構造になっています。このようなところで関所業務が行われていたというのは想像しづらいことです。
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ここからほど近いところに長城の最西端はありました。

敦煌の莫高窟と鳴沙山については近いうちにブログで紹介します。

万里の長城の端はどうなっているの? [某月某日@中国]

北京に駐在していた時、日本からの来客があると万里の長城に案内することがよくありました。北京郊外には、万里の長城を見学できる観光地がいくつもあります。最も有名なのが八達嶺(はったつれい)長城です。おそらく、日本人観光客で万里の長城を見た人の9割以上はこの八達嶺長城を訪れたものと思われます。下の写真が八達嶺長城です。
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八達嶺長城は中国の中でも最も大きな観光地の一つです。長城はきれいに整備され、入り口から左右いずれの方向にも長城の上を数km歩けるようになっています。たいていの観光客はバスの時間の制限などから数百メートル歩くだけです。土産物店もたくさんあり、日本円でも買い物ができます。

万里の長城といっても、総延長8851.8kmもあります。北京郊外には八達嶺長城だけでなく、慕田峪(ぼでんよく)長城や司馬台(しばだい)長城、金山嶺(きんざんれい)長城、居庸関(きょようかん)長城などがあります。これらの長城にも行きましたが、北京から遠いほど鄙びており、石壁が壊れている箇所も多く、風化が進んでいます。初めて見るには八達嶺長城が最も感激しますが、何度も行くとあまりにも人手が加わっていてわざとらしく感じられます。かえって、司馬台長城のような鄙びた場所のほうが先人の努力に想いを馳せることができます。

長城には500mおきくらいに見張り台があります。上の写真で、長城の途中に四角い箱のように見える場所が見張り台です。レンガ作りで、中には幾つかの部屋があります。見張り台は、大きなものでも日本の普通の住宅一軒分くらいです。小さなものはワンルームマンションより小さめです。往時にはこの中に兵士が詰めて敵の来襲を見張っていました。40℃を超える夏の昼間や-20℃以下になる冬の夜に見張りを続ける大変さが偲ばれます。それと兵士への食料供給も簡単ではなかったと思います。よくこんなものを作ったものだという感じがします。

以前から万里の長城の端はどうなっているのだろうかという疑問を持っていました。
2001年の5月に長城の東の端、同じ10月に西の端を見る機会がありました。
東の端は渤海にありました。北京から東に約300km行った海の上です。下の写真がそれです。山海関の老龍頭長城と呼ばれています。長いながい長城を大きな龍にたとえて、その端を頭に見立てています。
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これが長城の東の端にあたりますが、海上を通って攻めてくる敵に対抗するために山海関城が設けられました。その東の大門がこの「天下第一関」です。これらをみると、中国はスケールの大きな国であることが実感できます。
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西の端は、北京からみると西へ直線距離で約2000km離れています。敦煌の西北西約100kmにある玉門関の近くにあります。

ここがまさに万里の長城が砂漠の中に消え行く最西端です。往時はもちろんここまできちんとした長城が作られていたのでしょうが、何百年もの風雪によりこのような姿になっています。
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東へ移動すると、少しずつ長城の名残が大きくなってきます。
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その横には狼煙台が残っていました。だいぶ風化していますが、往時は敵を見つけるとこの上で狼煙を上げて敵の来襲を告げたものと思われます。おそらく北京まで情報が伝わるのに数日を要したのではないでしょうか。敵の映像までも瞬時に送れるいまのインターネット社会を見たら、往時の兵士は何と思うでしょうか。
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さらに移動すると、長城の痕跡がだいぶ残っています。土と藁を交互に敷き詰めた構造です。おそらく往時はこの上にレンガを敷きつめて、八達嶺長城と同じような強固な壁を作り出していたものと思われます。
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その近くには玉門関という関所の跡が残っています。いわば税関のようなもので、ここで通行人のチェックをしていたようです。
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その脇には、役人や兵士のための食料倉庫の跡も残っていました。
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それにしても、このような壮大なスケールの軍事施設を作る国、中国、の底知れぬパワーを感じずにはいられません。

本題とは無関係なことですが、今回使った写真の最初の4枚はネガフィルム、後半6枚はポジフィルムで撮ったものです。10年経つとネガフィルムは元の色から大幅に変色していますが、ポジフィルムはほとんど変化がありません。この違いは大きいですね。

モンゴル疑似体験 [某月某日@中国]

また話が飛んで、中国に移ります。
2000年の6月末、私は北京に駐在中でした。中国人社員5名とともに、ば上平原(“ば” は土偏に貝、山の間にある平地の意)に一泊2日のバス旅行に出かけました。北京の北約300kmのところにある平原です。北京から山を5つか6つ越えて行くので、片道6時間以上かかりました。河北省にありますが、内蒙古自治区に隣接しているここではモンゴル様式の生活スタイルが一般的です。モンゴル生活の疑似体験をしました。

九州阿蘇の草千里を何百倍も大きくしたような草原といえば、ここのイメージを理解してもらえると思います。下の写真のように、だだっ広い草原の中に、こんもりした丘(高さは数十~百メートル)がいくつも並んでいます。
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泊まったホテルは大草原の真っ只中にありました。部屋の様式は、普通のホテルスタイル、山小屋スタイル、それとモンゴルの住居であるパオスタイルの3種類がありました。パオは人気があると見えて満室でしたので、山小屋スタイルに泊まりました。ホテルのまわりにはホテルの施設以外の建物は何もなく、草原しかありません。
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ホテルのまわりに数十頭の馬が繋がれており、それぞれ馬方が客を待っていました。客の数より馬の数が多いので、多くの馬方はあぶれています。
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馬方同士10人ほどで競馬をしていました。すぐ横を馬の集団が駆け抜けます。すごい迫力です。ジンギスカンの騎馬軍団を彷彿とさせるものがありました。
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皆で馬に乗りました。それぞれ好きな馬を選んで跨りました。まともに馬に乗るのは初めてです。馬方に引かれてそろそろ歩きはじめました。少し慣れると馬方は轡を掴む手を離し、馬の尻をピシャリと叩くと馬が走り始めました。当たり前のことですが、馬は歩く時と走る時とでは足の動きが全く違います。乗っている者の揺すられ方も全く違います。こちらは振り落とされまいとするだけで精一杯です。でも、若い人はすぐ慣れてしまいます。一緒に行った若い社員は、一時間もしないうちに一人で自由に馬を乗りこなせるようになりました。こちらは3時間たってもまともに乗れません。しかも馬から下りたら、足がまともに動かず、完全に蟹股状態になってしまいました。

夕方は、モンゴル舞踊を見ながらモンゴル風焼肉の夕食を楽しみました。200名ほどの泊まり客が野外のテーブルで食事をしました。普通の焼肉や野菜のほか、羊の丸焼きが8頭出てきました。羊一頭を丸ごと串刺しにして炭火の上で回転させながら焼くのです。テレビでは見たことがありましたが、実物を見るのは初めてでした。焼けたころを見計らって、火の番をしていたおじさんがナイフで肉を切り分けてくれました。すでに調味料が染み込ませてあり、香ばしくてたいへん美味しい肉でした。外国人は私一人しかいなかったので、火の番のおじさんが熱心に肉を勧めてくれました。食べ過ぎました。
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翌朝、4時に起きて草原の朝日を見に行きました。空気が澄んでいて、とても爽やかです。東の空が白んできて、大きな太陽が丘と丘の谷間から顔を出しました。自分の影を見ると、草原の上に百メートルくらい延びています。下の写真の右側にある黒い部分が私の影です。手を上げると、草原の巨人も手を上げます。しばらく子供に返った思いで影と戯れました。
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その時、一人の中国人が颯爽と馬に跨り、長い影とともに草原の向こうに去って行きました。思わず、「シェーン、カムバック!」と叫びたくなるシーンでした。
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北京ノスタルジア [某月某日@中国]

前回に続きもう一回、北京について書きます。
7年ぶりに訪問した北京で懐かしい場所を再び歩きました。胡同です。胡同というのは、路地のことです。清の時代には、故宮を中心にして、その周辺に武官や文官はもちろん、職人、商人、などが城壁の中に住んでいました。城壁内といっても、幅約6 kmで長さ8 kmほどの長方形の広大な敷地です。その城壁をすべて取り壊して道路にしたのが、今の2環路(環状2号線)です。この城壁内住居の間を通っている小路が「胡同」です。胡同は「フートン」と発音します。下の写真が現在も残っている胡同です。
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この胡同はかなり大きなものですが、下の写真のように3-4人がやっとすれ違える程度の狭い胡同もあります。
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この胡同の両側が住宅になっており、その作りは「四合院」といいます。三百平米から大きいものでは千平米ほどの長方形の敷地を取り囲む形式で、住居が長屋のように配置されています。中心に中庭があります。中庭には棗(なつめ)の木が植えられていることが多いです。入り口は東南の角にあり、必ず南を向いています。その入り口(玄関)に唐獅子や太鼓などの彫刻された石の置物が一対置いてあります。一例が下の写真です。これを見れば、当時のその家主の王宮での格が分かったといいます。
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本来の四合院の作りは、中庭から見て北側の日当たりの良い部屋が当主の住まい、東西の部屋が子供などの親族の住まい、そして南側の部屋が使用人の住まいあるいは物置になっていました。しかし、何代も世代交代を重ねるうちに子供の住む部屋が足りなくなって、中庭に別の家を作ったり、増築したりして、ほとんど原型を留めなくなっています。現在は、一つの四合院の中に必ずしも血縁関係のない何所帯もの家族が暮らしています。

四合院の中庭で面白いものを見つけました。柿です。中国の柿はなぜかこの写真のようにくびれています。剥くのはちょっと難しいですが、味は日本の柿と同じです。
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四合院の中で練炭を見つけました。今でも練炭七輪が活躍しています。
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このような胡同のある住宅街は、私が駐在していた時はあちこちにありました。日本でいえば、谷中や京島にある下町の雰囲気です。この中を歩くと、中国人の生活の息吹がそのまま伝わってきます。休日には一人でよく胡同の中を何時間も散歩しました。日向ぼっこしているお爺さんやお婆さんと、通じない中国語で、ほとんど身振り手ぶりだけで会話をしたこともありました。
しかし、このような趣のある胡同がいま北京から消え去ろうとしています。観光用に一部は残されますが、そのほかの胡同地区の住民は用意されたマンションに強制移住させられます。跡地は更地にして、高層マンションやオフィスビルに生まれ変わっていきます。下の写真のようにあちこちで胡同地区を整地した工事が進んでいます。これでいいのだろうかという想いが頭を過ぎります。
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